|
 |
|

奥六郡の外、衣川以南まで勢力を伸ばしてきたが政府軍の源氏と出羽の清原氏に滅ぼされた天喜4年(1056)の前九年の役で、安倍の血を引く藤原清衡は父が処刑され、母と共に清原氏に引き取られました。その後、清原一族の内部抗争が起こり、源義家が武力介入するという後3年の役がおこり、これを制したのが義家を味方につけた清衡でした。計らずも「安倍の血」が平泉を取りもどし、奥州を統一することになったのです。そして、清衡の奥州の人に対する偏見を正し、無実の罪で殺された奥州の人々の霊を浄土に導く、という悲願のもとに中尊寺は建立されました。 |

源義経は保元3年(1158)源義朝の六男として京都に生まれ幼名を牛若丸(遮那王)といいました。
承安四年(1178)牛若丸16歳の時、藤原三代秀衡の御用商人として京と奥州間に流通活動していた三条吉次季春(金売吉次)に随って京を下り、途中元服して九郎義経と名乗り奥州平泉の秀衡の庇護をうけました。その後治承4年(1180)義経21歳の時、兄の頼朝の挙兵を聞き平泉を離れ、頼朝軍の総大将となり平家を破り、大いに活躍したが、逆に頼朝の猜疑心(さいぎしん)をあおることとなりました。頼朝は義経の内状偵察をする目的で、御家人の河越太郎重頼の姫(北の方)を正妻として義経に送りました。その後、義経は頼朝の討伐命をうけ京を下ることとなり、北の方と共に手を携え辛酸を嘗め尽くし平泉に辿りつくこととなりました。おそらく純情可憐な北の方は、頼朝の策略に反し、義経の気概と風格に魅せられつつ、しかも一人の妻として義経と強い絆で結ばれていたのでしょう。
|

義経は京を下って再び奥州平泉にりつき従来と少しも変りなく温かく迎えいれられ、藤原秀衡の庇護をうけることとなり、中尊寺の東の方の丘陵にある高舘を居舘にしました。そして、北の方は、義経公の乳母妙好法尼の菩提を弔うため、当寺の前身である梅際寺を再建し、運慶の力作である不動明王を安置し、従者の禅師頼然を中興開山とし山号を妙好山と改めました。
頼朝の追討から逃れてから八カ月、義経が父とも頼む秀衡は死の直前、子等と義経を枕頭に呼び「義経を平泉の総大将とし兄弟合力して奥州を守り抜くべし」と遺言し、文治3年(1187)平泉の全盛期を築いた華麗な生涯を閉じました。
|

藤原四代目を継いだ泰衡は、弱気な正直者で決断配慮の大器ではなかったため兄弟間で結束が乱れ始めました。それに加え、奥州支配を企む頼朝から圧力があり、再三、再四による義経捕縛の命が下され泰衡は、平泉の独立と平和を守るため、文治五年(1189)4月30日高館の義経を襲いました。その時、義経主従は応戦したが、武蔵坊弁慶は衣川の中の瀬で戦い、立往生の壮絶な最後を遂げ、義経は持仏堂にこもり、北の方と愛嬢共に自害し、黄泉の旅まで3人、一家族は一蓮托生全滅して果てました。その後御遺体は当寺に運ばれたといわれます。そして頼然は夫妻の御位牌を安置し菩提を弔い朝夕回向に励みました。この御位牌は、御本尊の不動明王と共に今も雲際寺に祀られています。
|

義経(右)・北の方(左)の御位牌 |

「中尊寺落慶供養願文」に、鎮護国家と浄土建設、の救済の精神を藤原清衡は綴っております。その後、三代秀衡で全盛期を迎え、南は白河関より北は津軽外が浜に至るまで道の一丁ごとに黄金の阿弥陀如来を描いた笠卒塔婆を建てたといわれます。そのほぼ中央に位置する黄金都市平泉。京洛を超え、都人(みやこびと)が夢想だにしなかった未曾有の試みが、平泉において現実となっていました。しかし、ここに築かれた「平泉文化」の歴史は多くの不思議と驚異的な事実で綴られ、その深さに魅力が秘められています。
平安浄土を追い続けた平泉文化。時代に翻弄(ほんろう)されつつも、一本の弓を内に秘め、鎌倉・平泉の2つの文化を駆け抜けた義経。それを慕い、愛に殉じた北の方。人々はその生き方にあこがれ、共感するのは心情であります。
|
 |
源義経が藤原泰衡に襲われ自刃して果てる前夜、高舘の舘から月夜に浮かぶ北上の山河を見つめている。背後には武藏坊弁慶の姿がある。平成14年6月23日に義経公を偲ぶ法要が当寺で執り行われた際、この画を安置した。
|
|
|
 |
■長者原廃寺
平泉中尊寺とは衣川を隔てて指呼の間に相対する位置にあります。伝えによると奥州平泉の藤原秀衡に重用され源義経の北行を助け平泉へと導いたとされる金売吉次の屋敷跡といわれていましたが、近年の調査によると安倍氏時代の本格的な寺院跡であることがわかっています。長者原の地名は付近一帯はかつて朝日長者とよばれた安倍氏の廃墟であり、安倍氏の本拠地でありました。 |
|
この辺りは陸奥国の中央でもあり、安倍氏から平泉藤原三代に継承されていきました。こうした背景に都市平泉の原形をうかがい知ることができます。 |
■高館・義経堂
高舘はかつて、兄頼朝に追われ藤原秀衡公を頼って奥州平泉に落ち延びた源義経公の居館があった所といわれ、文治5年(1198)閏4月30日に秀衡公の子ども泰衡に襲われ妻子とともに自害したのもこの地と伝えられています。
衣川の流域はかつて前九年・後三年の役の戦いが繰り広げられたとことであり、弁慶立往生の故事でも知られています。
|
 |
|
|